大師の生い立ち

弘法大師空海は、宝亀五年〔七七四年〕讃岐国多度郡、今の善通寺で生まれた。父は佐伯田公〔善通公〕の郡司であった。密教の祖である不空三蔵の没した年に誕生されたことから、その生まれ変わりともされる。 幼名を真魚(まお)と言い、幼少より仏に手を合わせ、藁や土で御堂を作っていた弘法大師空海は漢文を読みこなして、周囲から「貴物(とうともの)」と呼ばれていた。 その利発さに期待をした親や兄弟、一族の期待を一身に受け、阿刀家の出である母の弟の阿刀大足とともに都へ上った。公卿や貴族の子弟を官吏として教育する大学で学ぶことになる。伊予親王の侍講に任ぜられていた阿刀大足らの力添えで、大師は十八歳のとき大学の明経課に入ったが、中退してしまう。この時の考えを「三教指帰(国宝)」に記されている。三教とは儒教・道教・仏教の三教である。大師は全ての人を信の悟りへ向わせる仏教の道をすすむことの大切さを記されている。 → 三教指帰 へ

虚空蔵求聞持法 四国山中での修行

ここに一人の沙門あり、余に虚空蔵求聞持法を示す。 その経に説く「もし人、法によってこの真言一百万遍を誦すれば、即ち一切の経文の文義暗記する事を得る。」とここに大聖の誠言を信じて、飛焔をさんすいに望み、阿波国の太龍の岳にのぼり攀じ、土佐洲の室戸岬に勤念す。谷響きを惜しまず、明星来影す 弘法大師は奈良の大安寺の勤繰大徳の元で槙尾山で得度し、「教海」と改めた。国の認める得度僧ではなく私度僧と呼ばれる立場であった。さらに勤繰より「虚空蔵求聞持法」を授かり、四国の太龍寺や室戸岬などで山岳仏教の修行に明け暮れる。この間に名を「如空」そして延暦十二年(七九三年)に「空海」と改める。 大師は久米寺で「大日経」に出会い、その教えを学ぶために唐に渡る決心をする。

入唐求法

延暦二十三年(八〇四年)に正式に得度し、度牒を受けた大師は留学僧として遣唐船に乗った。 藤原葛野麻呂を大使とするこの遣唐船には「最澄」も乗っていた。しかし船団が整うまでの一年間、たまたま遣唐船は博多に足止めされていたため、遅れて来た弘法大師はこの遣唐船に運良く乗ることができた。

 

空海は遣唐大使や橘逸勢(たちばなはやなり)ともに第一船に乗るが、嵐に遭って南へ流されてしまう。中国の福州の赤岸鎮に船が漂着したときには、海賊と間違われ上陸を許されなかった。その遣唐史の一行を救った、弘法大師の書状が今も残っている。「大使の為に福州の監察使に与うる書」である。弘法大師の文章力と筆力により、「間違いなく遣唐使である」と認めた福州の知事の援助を受け、長安に辿り着いたのである。後に天台の円珍が入唐したとき、福州の開元寺から来た山主恵灌から「五筆和上はお元気ですか?」と問われて、空海の事を聞いているのだと判り「異芸の未だ嘗てたぐいあらざる」を称嘆していたと園城寺に残る円珍の文書に書かれている。 空海は遣唐船で唐に渡ったとき、通訳なしで中国語を喋ることができた。それは、奈良の大安寺にいた中国僧やインド僧ら渡来人から中国語を学んでいたからである。 一方で最澄と、遣唐使印符を持つ副使の乗った第二船は、予定通り明州に辿り着き運河で長安の都へ辿り着いた。しかし四隻の船団のうち第三船と第四船は消息不明となっている。 西明寺に入る。醴泉寺のインド僧般若三蔵、牟尼室利三蔵にインドのサンスクリット語を 習い身につけた。

 

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